先日広島へ仕事で出張した折に、7年間もの間抱き続けてきた願望が実現しました。
広島市の中心部から車で約30分の呉港のドックの近くに7年前の春にオープンした大和ミュージアム(正式名称:呉市海事歴史科学館)を訪れる機会に恵まれたのです。
父親が海軍兵学校出身の自衛官であったため、小さい頃から軍用機、戦車、自衛艦などを実際に目にする機会が多かったせいか、そのような技術の結晶とも言える究極のメカに非常に興味があり、模型少年になったのです。20代になった頃には、国産のプラモデルが非常に高品質になり、プラモデル作りの趣味に没頭するようになり、とうとう焼津市のプラモデルメーカーに就職してしまい、東京から静岡に引っ越したのでした。その会社では海外営業を任されると同時に製品企画にも首を突っ込んでいて、海外、特にアメリカやイギリス、ドイツに出張するたびに現地の航空博物館に立ち寄って主に第二次大戦当時の戦闘機や爆撃機、あるいはマクドネルダグラスなど実際の戦闘機メーカーの工場を訪問したり、空軍基地に出向いたりして実物の寸法を測ったり、写真撮影をしてプラモデル開発のための資料収集する任務が与えられていたものです。
もちろん、日本国内の各地の博物館にもよく出かけましたが、いずれも規模が小さくて、展示物も極めて僅かでした。このミュージアムが開館したのは、私がその会社を退職し、模型業界から完全にさよならしてから10年後のことですので、取材でここを訪れる機会はなかったのです。
鉄のくじら??退役した海上自衛隊の潜水艦「あきしお」が鎮座しています。操舵室、潜望鏡、居住エリアなど内部を見学できます。
戦艦陸奥の巨大な砲身とプロペラー(スクリュー)
10分の1の大和の超精密モデルの艦首の菊のご紋章です。
艦首方向から見た世界最大の戦艦の勇姿。模型の全長は26.3mもあって、その制作には何と2億円もかかったそうです。
艦体中央部。驚くほど精密にできています。まさに世界に例のない究極の艦船模型と言えるでしょう。
艦尾の飛行甲板。カタパルト付近の移動用レールの上にはこれまた超精密な零式観測機(通称「零観」)が乗っています。偵察機はカタパルトから空中に射出され、索敵に向かい、敵艦隊の動勢などを逐一母艦に報告するという極めて重要な任務を与えられています。帰艦するときは近くの海面に着水し、艦尾のクレーンで回収してもらいます。
かなり以前に琵琶湖から引き揚げられ復元された零戦63型。零戦の最終型としては世界でこれだけの存在です。(それより前のタイプは世界中に何機もあります。)
余談ですが、零戦の零とは、0で、元は00でした。これは、2600の末尾2桁で、2600とは皇紀2600年を意味します。零戦が海軍によって正式採用されたのは、1940年、昭和15年で、この年は初代天皇である神武天皇が即位したとされる紀元前660年から数えてちょうど2600年目にあたる皇紀2600年でした。昭和15年の紀元節は、戦意高揚の意味もあり、盛大な祝典が行なわれたそうです。ですので海軍においては、その年に正式採用された航空機はすべて零式と命名されています。
大和という名称ですが、これは無論、「大和の国=日本」ということですが、大和という漢字は「大きく和す」との意味を込めた当て字ですから、その音であるヤマトとは本来何であるのかを考えるべきです。ある説では、ヤマト→ヤーマト→ヤーウマトと遡ることができ、ヤーウマトのヤーは、ヤーシロ(ヤシロ=社)やヤーサカ(ヤサカ=八坂)のヤーと同じでユダヤの神であるヤーベ(エホバ、ヤハウェーとも呼ばれる)を意味し、ウマトは「〜の民」という意味のへブル語だそうです。つまり、ヤマトは「エホバの民」そして、「その民が治める国」ということになります。このことがもし真実とすると、我々日本人や日本文化のルーツに対する認識が根底から覆ることになりそうです。このあたりの事情については機会をみてまた書いてみたいと思っています。
ミュージアム一階の「大和広場」の全景。人の大きさと比べると1/10大和の巨大さがよくわかります。
大和ミュージアム公式HPはこちら→http://www.yamato-museum.com/
広島市の中心部から車で約30分の呉港のドックの近くに7年前の春にオープンした大和ミュージアム(正式名称:呉市海事歴史科学館)を訪れる機会に恵まれたのです。
父親が海軍兵学校出身の自衛官であったため、小さい頃から軍用機、戦車、自衛艦などを実際に目にする機会が多かったせいか、そのような技術の結晶とも言える究極のメカに非常に興味があり、模型少年になったのです。20代になった頃には、国産のプラモデルが非常に高品質になり、プラモデル作りの趣味に没頭するようになり、とうとう焼津市のプラモデルメーカーに就職してしまい、東京から静岡に引っ越したのでした。その会社では海外営業を任されると同時に製品企画にも首を突っ込んでいて、海外、特にアメリカやイギリス、ドイツに出張するたびに現地の航空博物館に立ち寄って主に第二次大戦当時の戦闘機や爆撃機、あるいはマクドネルダグラスなど実際の戦闘機メーカーの工場を訪問したり、空軍基地に出向いたりして実物の寸法を測ったり、写真撮影をしてプラモデル開発のための資料収集する任務が与えられていたものです。
もちろん、日本国内の各地の博物館にもよく出かけましたが、いずれも規模が小さくて、展示物も極めて僅かでした。このミュージアムが開館したのは、私がその会社を退職し、模型業界から完全にさよならしてから10年後のことですので、取材でここを訪れる機会はなかったのです。
鉄のくじら??退役した海上自衛隊の潜水艦「あきしお」が鎮座しています。操舵室、潜望鏡、居住エリアなど内部を見学できます。
戦艦陸奥の巨大な砲身とプロペラー(スクリュー)
10分の1の大和の超精密モデルの艦首の菊のご紋章です。
艦首方向から見た世界最大の戦艦の勇姿。模型の全長は26.3mもあって、その制作には何と2億円もかかったそうです。
艦体中央部。驚くほど精密にできています。まさに世界に例のない究極の艦船模型と言えるでしょう。
艦尾の飛行甲板。カタパルト付近の移動用レールの上にはこれまた超精密な零式観測機(通称「零観」)が乗っています。偵察機はカタパルトから空中に射出され、索敵に向かい、敵艦隊の動勢などを逐一母艦に報告するという極めて重要な任務を与えられています。帰艦するときは近くの海面に着水し、艦尾のクレーンで回収してもらいます。
かなり以前に琵琶湖から引き揚げられ復元された零戦63型。零戦の最終型としては世界でこれだけの存在です。(それより前のタイプは世界中に何機もあります。)
余談ですが、零戦の零とは、0で、元は00でした。これは、2600の末尾2桁で、2600とは皇紀2600年を意味します。零戦が海軍によって正式採用されたのは、1940年、昭和15年で、この年は初代天皇である神武天皇が即位したとされる紀元前660年から数えてちょうど2600年目にあたる皇紀2600年でした。昭和15年の紀元節は、戦意高揚の意味もあり、盛大な祝典が行なわれたそうです。ですので海軍においては、その年に正式採用された航空機はすべて零式と命名されています。
大和という名称ですが、これは無論、「大和の国=日本」ということですが、大和という漢字は「大きく和す」との意味を込めた当て字ですから、その音であるヤマトとは本来何であるのかを考えるべきです。ある説では、ヤマト→ヤーマト→ヤーウマトと遡ることができ、ヤーウマトのヤーは、ヤーシロ(ヤシロ=社)やヤーサカ(ヤサカ=八坂)のヤーと同じでユダヤの神であるヤーベ(エホバ、ヤハウェーとも呼ばれる)を意味し、ウマトは「〜の民」という意味のへブル語だそうです。つまり、ヤマトは「エホバの民」そして、「その民が治める国」ということになります。このことがもし真実とすると、我々日本人や日本文化のルーツに対する認識が根底から覆ることになりそうです。このあたりの事情については機会をみてまた書いてみたいと思っています。
ミュージアム一階の「大和広場」の全景。人の大きさと比べると1/10大和の巨大さがよくわかります。
大和ミュージアム公式HPはこちら→http://www.yamato-museum.com/