私たちはどうも科学という言葉に弱いような気がしますが、そもそも科学という言葉自体まったく意味をなさない奇妙な造語と言えます。  英語の「SCIENCE」に相応することになっているのですが、その本来意味するところにまったくふさわしくない訳語なのです。

SCIENCEの本来の意味は、SCI(知る、識る)+ ENCE(こと…抽象名詞の語尾)ですから、「知ること」或いは「識ること」となります。  一方「科学」の「科」は、「科目」、「理科」、「社会科」とか、「人事課」や「捜査一課」などに使われている「科」または「課」であって、その性質や内容によって分類された部分であるから、「科学」とは物事を細分化し命名し分類する学問ということになります。

科学技術は私たちの暮らしを便利で快適にするために多大な貢献をしてきたことは確かな事実でしょう。 しかし一方では、科学的思考が本質的に持っているまさにその細分化,命名、分類という一連のプロセスによってとてつもなく大切なものが失われてきたようです。 その大切なこととは、つまり、他者との関係、宇宙はひとつであり、その中に存在するものはすべてそのひとつの一部を構成している部分であるという考え方です。 別の言い方をすれば、部分は全体であり、全体は部分の集合体であるとする考え方ともいえます。 

万物は連続していて、人間が作った物差しで必ずしも細かく分類などできるものではないのではないか。 そのようにして、科学(分類)することによって、却って本質からかい離してしまうのではないかという危惧が生じます。 この良い例は現代医学が犯している過ちを見るとよく理解できます。 病院に行くと、様々な「科」があります。 内科、外科、泌尿器科、呼吸器科、循環器科、消化器科、皮膚科、産科、婦人科、精神科、心療内科などなどです。 そして、それぞれの科には担当の専門医というのが存在します。 彼らは自分の専門というちっぽけな部屋に閉じこもっていて、他の部屋の中、あるいは外の世界のことを知ろうとしません。 こういうのを俗に島国根性とか縄張り根性とかいいます。

自動車やコンピュータのような機械ならまだしも、人間の体はそれこそ一体であって、そもそもそのような部分に分けて取り扱うなどということ自体があってはならないはずです。 体のあらゆる臓器、組織、さらには個々の細胞に至るまで、そのすべてが、神経の電気パルスや体液を流れるホルモンなどの様々な物質、さらには未知の媒体(多分存在するであろう)を介して密接な連携を保ちながら個体の生命と種(DNA)の保存という共通の目的のために働いているわけですから、部分的な支障は必ず全体に影響し、またその逆に全体的な支障、例えば脳卒中でいつも見られるように脳など中枢神経系における障害は様々な部分へ症状として発現することになります。 さらには、心の病は体を痛め、体の病は心を痛めることにもなります。

部分は全体であり、全体は部分でもある。 このように考えるのはホリスティックな思考と言います。 この言葉の中心は“whole”(全体)であって、その音からわかるように、ヘルスやホーリー(聖なる)とも関係しています。 別に医学に限った話ではなく、ホーリズム(全一主義とも呼べる)はもっと大きくて普遍的な思想であります。 体を全宇宙に置き換えるとしたら、一人一人の人間は細胞であって、宇宙の一部ということになり、宇宙と人間は一体であるというわけです。 このホーリズムに関しては非常に奥の深い話になりそうなので別の機会にまた考えてみたいのですが、ここで本論に戻ります。

さて、科学の用語的意味論とは別に、それが必ずしも万能ではあり得ないもう一つの重要な根拠が存在します。 それは人間の五感における生物学的限界に起因します。 普通五感の中で最も中心的なのは視覚と聴覚です。 私たちはこの世界のすべてを見たり聞いたりできていると思っていますが、それは錯覚に過ぎません。 実際にはほとんど見えていないし、聞こえてもいません。

光は電磁波という波の振動で、音は空気の振動による波です。 それぞれには反比例する振動数と波長があって、超低周波から超高周波まで無限の広がりをもっていますが、残念ながら人間の目や耳が感知しうる周波数の幅は極めて狭い範囲でしかないのです。 人間の場合、視覚においては、電磁波の内の赤として認識できる波長から紫に見える波長との間の可視光線と呼ばれる極めて狭い範囲の周波数帯の光しか見えません。 無限の拡がりを持つ電磁波のうちのほんの一部ですから、客観的にはゼロに近いといえるでしょう。 ですからほとんど何も見えていないということになります。

このように私たち人間の認識というものは極めて狭い(ほとんどゼロに近い)わけですので、その認識に基づく脳での思考も極めて限定的にならざるをえないのです。 ですから分かったつもりでも実は何も分かっていないということになります。 科学信仰がいかに危ういものであるかということの大きなな理由はここにもあります。