この世界は空(くう)であるという般若心経の教えは、同時にこの世界には物は一切存在しないという真実を断言しているわけですが、それならば世界は空虚で虚しいもので、一切を否定すべきものかというと、それは全く逆であって、空であることを理解するというまさにその行為によって初めて、この現実世界がこよなく大切で愛おしいものに感じることができるようになるのだと思われてなりません。

空なればこそ万物が愛おしい。 物も生命も、刻一刻と変容するエネルギーの揺らぎが生みだすほんの一瞬の濃淡に過ぎないからこそ無限大に貴重に思われるのです。 エネルギー不変の法則というのがあって、その総量は増えもしなければ減りもしない。  ただその在り様が止まることなく不断に変わるだけなのです。  まさしく諸行無常であります。

人の一生だって、無限の過去から無限の未来の中での一瞬の火花の閃きのようなもの。 100年の人生もあればその半分の人生もある。 どっちにしても実際過ぎ去ってしまえば、一瞬の出来事です。  したがって問題は長さではなく、その一瞬をどのように生き抜くかというそのプロセスこそが誰にとっても人生最大の課題であるはずです。

ここで最大の難問にぶつかります。  あらゆる物質は、分子、原子、原子核、陽子、中性子、そしてそれらを構成する素粒子クウォークのエネルギーに行き着くとされているのですが、それが濃淡を持ち、まだら状になって濃密な部分と希薄な部分に分かれていて、その濃密な部分を物質物体として光、色、音、匂い、味、そして電子の反発力としての感触として私たちの感覚神経が感知した情報を脳の内部で再構成して物としてさらには世界、宇宙として認識するに至るわけですが、それでは、このエネルギーの濃淡のまだらを作り出しているのは一体どんな仕組みなのでしょうか。

ひとつの仮説としては、素粒子間で引力あるいは、反発力のようなものが働いていて、引力が優勢なところでは密度が高くなり、逆に反発力が優勢なエリアでは密度が低下するのではないかと考えられます。  空、すなわちエネルギーは常に揺らいでいて、天気図の気圧配置における高気圧と低気圧のごとくランダムに密度の高低ができ、高低のそれぞれが連鎖的かつ多重的に拡大もしくは縮小しながら移動していくという具合になっているのではないでしょうか。